2011年01月04日

「型」は「技」の非可逆圧縮

ある日、medtoolzさんがつぶやいていた。

 RT @medtoolz: 型を通じて、その裏にある師匠の体験を再現することを心がけないと、
 型を超えて名人に到達することは出来ないんだろう

ふとそこから思いついてTweetしたことを並べてみた。


 剣道の型は教えるためのもの。各流派の型は、空耳期待の非可逆エンコード。

 剣道をやってたころ、いろんな諸流派の本を読むのが好きだった。
 剣道の型は割とよく練習していた。

 で、剣道の型は割と諸流派の生々しい部分を削ったものだと思っていた。

 そして剣道の競技はそのフィルタリングされきった型が原点だと感じていた。

 で、諸流派の型はあまり事例を知らないんだけど、大会で演武なんかをみていると、
 どうも流派の固有のアルゴリズムで非可逆圧縮した生々しい状況の身体的記録に思えた。

 コールandレスポンスではないけど、他者とのやりとりが前提になっている。
 型を増やすのと、型を絞り込むのはCISCとRISCみたいなもので、
 このへんは診断学的になるけれど、有限個の状況に対する応答だったと思う。

 未知の状況に遭遇して淘汰された結果、
 単純な基本形の組合せが習得コストと効果のバランスするところだとわかって、
 それで近代競技剣道が成立したんじゃないかと思う。

 ただ、その組合せは割と身体的能力の高さが要求されるため、
 必然的に競技剣道はスポーツ化してしまった。型は形骸化している。

 諸流派の型をたどると、身体的能力に劣る者や不利な状況にある者が、
 優位な相手に対応するものがある。
 僕の通っていた道場も稀に2対1の稽古とかあった。昔の剣術は戦術に近かったんだと思う。

 だから「兵法者」が剣術家であり、戦術家であったのは、納得のいく話で、
 要するに、非可逆圧縮された「型」を状況に応じて、
 どれだけ素早く展開できるかと、「型」化で欠落した部分を埋められるかが、求められていたんだろう。


こうみると、歴史的な視点がばっさり抜け落ちているけれど、
「型」は「技」の非可逆圧縮と展開、という見方はなかなか面白かったのかな、と思う。

宮本武蔵なんかは「型」や「技」を離れたところを目指していたし、
柳生家は戦闘を越えた戦術レベルの「型」を構成していたように見える。
だからこそ徳川家も採用したわけで。

「型」が「技」を非可逆圧縮したものというのは、
それこそ文章や会話でもそうで、高度な教養を持つ人々の会話が
一般人には何を言っているかわからないのは、
ひとつひとつの単語が持つ意味が文脈によって高度に圧縮されているからなんだと思う。

圧縮展開後の再現率はデコーダの性能次第で、
下手なデコードでは再現率が低いし、優秀なデコーダはほとんど元の状態に戻せる。

この圧縮と展開を自由自在に操れるのが達人なわけで、
それが行き過ぎるとそれこそ日常の所作にまで「技」が「型」として圧縮されて偏在する。

室町・安土・桃山あたりから展開したこれらの圧縮・展開技術の百花繚乱は、
元をたどれば仏教各宗の信仰形態あたりからはじまっているんじゃないかと思う。

真言にせよ、座禅にせよ、踊りにせよ、法華経にせよ、マニ車にせよ、
あれも信仰表明の形態になってしまったけれど、
元をたどれば仏教世界観による世界の理解を「型」に圧縮してしまったものだと思う。

面白いのは、展開時の再現率が高いほど良いわけではない、ということで、
再現率が低いものが状況にあわせて新しい「技」の集合を生み出して、
そこから新たな「型」の集合=流派や宗派が生まれたことだと思う。

再現率が高くても、状況に適合できなかった「型」は脱落してしまうだろうし、
たまたま再現がうまくできなかった「技」が生き残ることもあるだろうし。

と、ちょっと系統樹思考にかたよった書き方になってしまったけれど、
こんな考え方もできるんじゃないだろうか、と思いました。
posted by kirikuzudo at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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